« 考 | トップページ | ありがとうございました »

皇帝が流れている

ベートーベンのピアノ協奏曲第5番

海の見えるこのコーヒーテラスは

いつもクラシック音楽が柔らかく漂っている

外は、風こそないものの

どんよりとした雲が垂れ込めている

ねぇ、なにを考えているの?

葉子が訪ねる

うん?

君との10年を、さ

応えかけて思いとどまる

こうしてはっきりしないのが

俺の悪い癖なのかな

公彦は考える

ふたたびの沈黙がふたりを支配する

この10年…

葉子も公彦も過去を巡らせていた

そういえば珍しくマスターが出かけているな

公彦はふと気づく

若いアルバイト店員がひとりだけだ

曲がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番に変わっている

重く苦しい雰囲気

それはふたりの間を一層隔たらせる

わたしたち…

一瞬言い澱んで葉子は問いかける

別れたほうがよいのかしら…

…そうだな…

公彦は低く呟く

この10年を葉子も考え抜いたに違いない

日ごとあたりまえに過ぎてゆく時

何のために一緒にいるのかと思う

ふたたびの沈黙が訪れる

その時ドアが勢いよく開いた

大きな紙袋を両脇に抱えたマスターが帰ってきた

葉子と知り合ったこの店

髭で小太りの気のよいマスターは

何度か人生相談のインストラクターになっている

なんだ、公彦くんも葉子ちゃんも元気ないじゃない

明るく語りながら

店の奥に入っていった

その時、ラフマニノフが突然止んだ

あ、この曲!

葉子と公彦が同時に声を出した

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番

ふたりがこの店で知り合った時に流れていた曲

2度目のデートの際コンサートに選んだ曲

ふたりが互いのこころに住むきっかけとなった曲

もう一度やりなおしてみないか?

うん

奥でマスターが微笑んでいる

いつの間にか

雲間からライスシャワーが穏やかな波間に降り注いでいた

|

« 考 | トップページ | ありがとうございました »

そら」カテゴリの記事